医療法人筑水会 筑波クリニック(ちくばクリニック)

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筑波家の備品

大分県立先哲史科館に寄贈寄託した資料等の一部を紹介します。

馬嶋流眼科秘伝書

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筑波家に伝わる資料群のなかで、特に目をひくのは眼科史に関連する資料です。 日本の眼科専門医のさきがけは、南北朝時代(14世紀の)尾張国(現愛知県)の僧医・馬嶋清眼(まじませいがん)といわれていますが、その馬嶋流の眼科術を伝える貴重な資料が「馬嶋流眼科秘伝書」です。約五メートルの長い巻物に、近眼・遠眼・白内障などの七十二症の眼科病状をカラーの図入りで解説しています。巻末の墨書から、天保十三(一八四二)年に描かれたものとわかります。大分県内の医学資料のなかでも近世の眼科の技術を物語るこの資料は大変珍しいものです。

岡城図

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江戸時代の筑波家は郡山村(現大野町)に屋敷を構えていましたが、「参寥亭(きんりょうてい)」と呼ばれた同家には、多くの文化人や学者が訪れています。岡藩医筑波家第二代の益之(ますゆき)の代には、田能村竹田がたびたび訪問しました。特に、天保三(一八三二)年には益之に「伝道煉丹図(でんどうれんたんず)」を贈り、また翌年末には、筑波家に二十日間滞在して「梅渓閑居図(ばいけいかんきょず)」を製作しています。
こうした三寥亭での筑波家にわたったものを思われるが、田能村家の親しい交流のなかで筑波家にわたったものと思われるのが、田能村直入(ちょくにゅう)・小斎(しょうさい)父子による岡城図です。図は、切り立った丘上に石垣が立ち並ぶ壮観な城に、ふもとの木橋から上っていく構図です。明治十五(一八八二)年に作成され、翌年に筑波家にわたった事が裏に記されています。
また、3代目の筑波玄仲(げんちゅう)の蔵書のなかには、『国史略(こくしりゃく)』(慶応元(一八六五)年刊の歴史書)や『輿地誌略(よちしりゃく)』(明治三(一八七〇)年刊の世話地誌)なども含まれており、医療に携わりながら、医学に止まらない幅広い知識を書物に求めたことを物語ります。

動脈一覧図

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筑波家の第4代直(すなお)は、明治十三(一八八〇)年に大分県医学校の2回生として入学し、医学を学びました。直が医学校在学中に記した筆記録(講義ノート)がいくつかありますが、なかでも四冊綴られた「衛生学」の筆記には、島潟恒吉(とりがたつねきち)医学校長の後述した内容を罫紙(けいし)七二二枚にわたり詳細にまとめたものです。
その緻密(ちみつ)で乱れのない筆跡は、直の勤勉で細やかな性格を物語ります。また、掛け軸に表装された「動脈一覧図」も直が医学校在学中の(一八八五)年に作成したものです。
からだの中心部を流れる大動脈から、脳や手足の流れを朱色で描いています。

大分県医学校 卒業証

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大分県医学校は、東京大学医学部卒業の鳥潟恒吉(とりがたつねきち)を学校長として明治十三(一八八〇)年に開校しました。
地域医療の担い手養成の期待をうけ、大分市西新町に校舎を建設しました。二階建ての講堂・生徒室と、平屋の食堂・調理場などを備えていました。当時の県医学校は、六期三年制で、理学・解剖学・眼科学・診断学・産科学・などの十五の科目を履修(りしゅう)するカリキュラムです。月末と期末に行われる試験により甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)の成績がつけられ、合格者には「進級証」を授与しました。
卒業時には大試験(開業試験)が科せられ、生徒たちには一ヶ月間の「温習」(復習)をして試験に臨みました。 この卒業証は、県医学校第二回生の筑波直(すなお)のものです。彼は、明治十三(一八八〇)年十一月に入学し、同十九年二月に卒業しています。

薬蘢(やくろう)

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江戸時代後期から現代まで200年以上にわたって偉業を継いで来た医家・筑波家には、さまざまな医療器具がつたわっています。
『東北院歌合』などによると、鎌倉時代の医師は、薬を紙袋に納めて往診したことがわかりますが、 やがて、さらに携帯に便利なものとして江戸時代から使われだしたのが薬蘢(やくろう)です。薬蘢(やくろう)には往診先での診療に必要な器具や薬を収納しました。「自家薬蘢中のもの」という言葉は、用にのぞんで自己の役に立ち、思いのままになることを意味しますが、医師の往診を待つ一般の人々にとって、薬蘢はこうした語を生むほど信頼できるものだったといえます。
型や構造は重箱式・小型百味箪笥(ひゃくみたんす)式・引き出し式などさまざまですが、筑波家伝来のものは、水薬用の薬瓶(びん)を収納するのに適した形式になっています。

村井琴山(むらいきんざん)の掛札

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村井琴山(むらいきんざん)は、江戸時代の熊本藩の医師です。幼少時より父にしたがって医学を学び、失明した父を助けて熊本医学館(再春館)を興した人物です。
掛札(かけふだ)は、琴山が安永八(一七七九)年に書したもので、中国の「漢書藝文志(かんしょげいぶんし)」からの引用です。
「病を論じて、もって国におよび、診をたずねて、もって政(まつりごと)を知る」。病気を研究して得た知識や理論を応用して国の政治をつかさどる、との意味です。筑波家の旧記によると、初代の筑波資富(しふう)が初めて医業を営んだのが安永年間(一七七〇年代)になっており、掛札の作成年代に一致します。このことから、この掛札は、医師開業の心構えとして、村井琴山が筑波資富に贈ったものと推測されます。
現代の政界や医学界に対するいましめとも解せるこの名句を、筑波家では200年以上にわたり代々受け継いで来たといいます。